円山応挙
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*基本情報*
生没年 1733-1795年
時 代 江戸時代中期から後期
居住地 京都 農家に生まれる
分 類 円山派
代表作 国宝「雪松図屏風 」
片ぼかし(かたぼかし)
その他 のちの京都画題に影響を与える
応挙の師は、石田幽汀という人物です。石田幽汀は古典や狩野派、琳派などの技法を習得した人物でした。応挙は様々な技法を学び、自分の作風を確立させていったのです。
応挙は、没骨法(もっこつほう)という技法を使います。これは、輪郭を書かず、初めから色と形を描くというもの。
応挙は常に写生帖を持ち、暇さえあれば動物・昆虫・植物など、あらゆる角度からスケッチをしていたようです。
『写生帖』東京国立博物館蔵
写生をするうち、輪郭を描かないという技法にたどり着いたのかもしれませんね。
また、片ぼかしという技法も駆使しました。片ぼかしというのは、名前の通り片方をぼかす技法。
筆のタッチも利用して描いていたことがわかります
狗子図(くしず) 1778年 45.2×64.4cm 敦賀市立博物館
狩野派の堅苦しい絵に飽きていた人々は、伝統を引き継ぎながらも独自の表現を持つ応挙の絵に魅了され、応挙は人気絵師となりました。
雪松図屏風 国宝 1765年
応挙は、1765年頃に独自の写生画様式を確立させ、その翌年から「応挙」と名乗り始めました。応挙、という名前は、「銭舜挙(中国元時代の画家)に応ずる(劣らない)」という意味だそうです。
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それでは、また明日
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投稿 2020.02.25
更新
参考