つれづれ美術手帖

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レオナール・フジタ


こんばんは、今日はレオナール・フジタについて、お話しします。


生没年 1886-1968年
生まれ 日本
居住地 フランス
画 題 猫・女
特 徴 肌の質感表現、「乳白色の肌」
分 類 エコール・ド・パリ
代表作 ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)

 

 

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(写真)ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)藤田嗣治 1922年 パリ市立近代美術館

 


本名は藤田 嗣治(ふじた つぐはる)。
しかし、名前に関しては「つぐじ」と呼んだり、晩年はレオナールと名乗ったりと、様々な呼び名があります。(ここでは、レオナール・フジタと表記させてもらいました)

 


フジタは東京美術学校の西洋画科出身の画家です。
しかし、当時の日本画壇は黒田清輝中心の、印象派のような写実主義が主流で、フジタはそのような画風には馴染めませんでした。
卒業制作では、黒田清輝が嫌いな「黒」を多用して挑発的な絵を描いた、というエピソードが有名です。
ちなみに、展覧会などに精力的に出品していたにもかかわらず、あまりいい評価は受けていなかったようです。

 


フランスへ留学し、新しい20世紀の絵画に大きな衝撃を受け、画風を一新します。

戦争があり一時期貧窮した生活をしていましたが、終結後は好景気となり、

 
のちに、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気画家になりました。


1933年、日本に帰国しましたが、フジタの描く絵は受け入れられず、強いバッシングを受けます。

帰国後すぐ戦争が始まり、フジタは国のために戦争記録画を書きました。しかし、そこでも非難の目は止まなかったようで、手記でも、

「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と嘆いています。


その後、渡仏の許可が得られると、すぐフランスへ渡り、その後日本には戻りませんでした。


そのことについて、フジタは
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」
と、言っていました。

 


*乳白色の肌*

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(写真)タピスリーの裸婦 藤田嗣治 1923年 京都国立近代美術館
生前、フジタはこの乳白色の肌について一切語りませんでした。
しかし、近年修復の過程で解明され始めたようです。
この、乳白色の色の作り方は、炭酸カルシウムと鉛白を1体3で混ぜて塗り、その上にベビーパウダーを塗りつけたものだと言われています。
それをすることにより柔らかで艶やかな白を表現することができます。


炭酸カルシウムの絵具とは、日本画の伝統的な画材である「胡粉(ごふん)」であるとされます。
(胡粉はホタテや牡蠣のの貝殻なので、カルシウムでできています)
日本絵画の絵具を生涯使い続けた背景には、何か特別な意味があったのでしょうか。
「西洋画でも日本画でもない絵」を描きたかったのかもしれませんね。

 

 

いかがだったでしょうか

内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください

 

それでは、また明日

 

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投稿 2020.04.11

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