土佐 光芳
*土佐光芳(とさみつよし)*
生没年 1700−1772
時 代 江戸時代中期
居住地 京都
分 類 土佐派
題 材 似絵(肖像画)・仏画など
その他 土佐派系図を作成
(写真)推古天皇像 1726年 叡福寺蔵
光芳26歳の作品。幼少から絵の才能を認められていた光芳の画力の高さが分かる作品。
推古天皇千百年遠忌に合わせて制作・奉納された作品。聖徳太子絵伝の推古天皇を参考にして描かれたもの。
光芳は土佐派の基盤を安定させた絵師です。
祖父は途絶えかけた土佐派を再建した土佐光起の子・光成で、光成の死後、その4ヶ月後に早死した父・光祐の後継として、わずか11歳で絵所預となり家督を継ぎました。
*土佐派の基盤を安定させた*
光芳は幼少より画技を認められていたこともあってか、順調に宮廷での位を上げ、このことにより宮廷の中で安定した位に就くようになります。
その中で、財政基盤の安定・組織拡大という2つの方策を取ることにより、土佐派は幕末まで続く安定した画派となりました。
①財政基盤の安定
また、光芳は土佐派に安定した財政基盤を築きました。
これまでの土佐派は、仕事の量に応じた金額を受け取っていたため不安定な生活を送っていましたが、光芳の嘆願により、給料制度のような体制で毎月一定の金額を受け取れるようになりました。
②組織拡大
さらに、組織を長く存続させるために、長男が本家を継いだあとに次男を分家させ、組織を拡大させました。
また、光芳は「土佐派系図」(家系図)を作成した人物としても知られています。
時系列などやや辻褄が合わない箇所が見られますが、この家系図は自家の正当性を確認する意図があったと考えられています。
このようなことからも、土佐派という組織の拡大・安定化を考えた光芳の人物像が伺えます。
(写真)藤原定家像 土佐光芳 18世紀前半 54×32.5 敦賀市立博物館
鎌倉時代初期の歌人・藤原定家の肖像画。
作品上部には色紙形で、新勅撰和歌集から引用した定家の和歌が書かれています。
あけは又 秋のなかはも すきぬへし
かたふく月の おしきのみかは
(八月の十五夜の夜が明けたら今年もまた秋も半ば過ぎるだろう。中秋の名月が名残り惜しいだけだろうか、いや、過ぎていく秋もまた惜しい)
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投稿 2021.04.30
更新
参考
藤原定家像 淳賀市立博物館
http://jmapps.ne.jp/tsuruga/det.html?data_id=253