葛飾北斎と雅号
こんばんは。今日は葛飾北斎の話の続き、北斎と雅号について、お話しします。
雅号とは、画家としての名前のことで、画号とも書きます。
北斎は生涯で約30回あまりも雅号を改名したことで有名でもあります。
彼の雅号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたためとする説もありとか。
雅号の変化により年代の違いがわかり、それぞれに違った表現が見られるところも北斎の魅力です。
1760年 北斎20歳 「勝川春朗(しゅんろう)」
当時有名だった役者絵師、勝川春章(しゅんしょう)のもとに入門し、20歳の頃、春朗の名を得て、細判役者絵師として浮世絵の世界に登場します。
好奇心旺盛な性格から、師の言うことを聞かず内緒で狩野派や洋画を学び、破門にされてしまったそうです。
1796年 北斎36歳 「宗理(そうり)」
前年に琳派の町絵師、俵屋(たわらや)宗理を襲名したものと考えられています。
この頃はたくさんの肉筆作品を描き、自らの個性を前面に出すようになっていくのです。
オランダの風景版画などに影響を受けたのもこの頃です。
(写真)隅田川 渡の雪
宗理風のほっそりした美人が描かれている。
1805年 北斎45歳 「葛飾北斎」
「北斎辰政」の略称で、日蓮宗の北斗七星信仰にちなんでいるそうです。
他よりも北斎の名が世に知られているのは、これ以降の改号で「北斎改め…」というように、北斎を軸として改号を記していたため。
それだけ北斎期に有名になった、ということかもしれません。
宗理期とは違った妖艶な美人肉筆画を描きます。
1835年 北斎75歳 「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」
現在聞くと(昔もですかね?)ネタでしかない雅号。前回もご紹介した通り最晩年とは思えない迫力ある作品です。
いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
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投稿 2020.09.11
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