つれづれ美術手帖

アート関連のアウトプットブログです。

箔の表現技法について

こんばんは、今日は箔の表現技法について、お話しします。

概要

*箔の貼り方について
*表現について
・2〜3枚重ねて貼っている
・下地に工夫がある
*技法について
・マスキングする
・酸化させる


*箔の貼り方*
箔を貼ることを、専門用語で「箔を押す」と言います。
箔を押すためには、現在ではさまざまな道具がありますが、昔はドーサというものを使用していました。
ドーサは、膠をお湯で溶かしたものに、明礬(みょうばん)を入れて作ります。

(写真)ドーサ液自体も今では売られています。
刷毛で画面全体にドーサを引き、少し紙がしめったところで、箔を押します。

簡単に言うとこんな感じ

「ペラペラの箔をどうやって綺麗に押すの?」
という疑問が出るかもしれませんが、箔を押すために「あかうつし紙」という優秀な道具があります。

あかうつし紙は、紙の片側にろう(?)が塗られている紙です。
これで箔を一枚一枚貼り付けると、シールのようにぴったりひっつくので加工しやすくします。(この作業をあかす、といいます)
楮紙にオリーブオイルで代用もできるそう。私はやったことないですが…

箔を手で触ると油や静電気がついてしまうので、竹箸を使用します。
市販のものは先が太く使い辛いので、ピンセットのように先を削って使用している人もいます。



*表現について*
箔は、鉱物を叩いて伸ばしたものなので、目には見えない小さな穴がたくさん空いています。
そのため、箔の表現では以下のような工夫がされます。

・2〜3枚重ねて貼っている
・下地に工夫がある

2つめの「下地の工夫」とは、特に金箔のとき、下地に丹(赤)を使用すること。
赤と金は相性が良く、下地に赤を使用することで発色が良く感じるのです。
参考の作品があればよかったのですが、なかなか見つからず。
下に良いブログがあったので参考に載せておきます。


*技法について*
・マスキングする
箔の上に絵具を載せると、平面的な表現になったり、厚塗りが不可能になったりと、制限が出てきてしまいます。
あえてその特徴を利用した作品もありますが、
マスキングをして箔を避けるというのも一つの方法です。

(写真)竹虎図 狩野甚之 二条城二の丸御殿
狩野派はマスキングの方法で金箔を背景に使用しました。
作品を見ると竹や虎の部分は下地が見えているのがよくわかります。
防染剤を使用することもありますが、狩野派の場合、薄いドーサ液で和紙貼り付け、箔を押した後剥がしていたそうです。

・酸化させる
こちらは主に銀箔で使用される技法ですが、あえて酸化(腐食)させて風合いを出すという技法があります。

(写真)紅白梅図屏風 尾形光琳
紅白梅図屏風の流水紋も、このやり方で描かれたと言われています。
下に良い記事がありましたので載せておきます。



いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください

それでは、また明日

* * * * *
投稿 2020.05.27
更新 
参考 箔の貼り方動画
https://youtu.be/AR4dbuM0pgM
森山知己 尾形光琳 国宝「紅白梅図」描法再現の記録
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/newcon/news/2012/012401/index.html
紅白梅図屏風の再現模写です。ここではたらし込みも含め、箔の上から絵を描いています。デザイン性の高い光琳なので、平面的な表現を狙っていたのかもしれません。
川の表現は、流水紋を防染剤でマスキングし、硫黄で黒変させて流水を表現しています。

下地と箔の関係
https://www.google.co.jp/amp/s/www.motoziyusuke.com/amp/%25E4%25B8%258B%25E5%259C%25B0%25E3%2581%25A8%25E7%25AE%2594%25E3%2581%25AE%25E9%2596%25A2%25E4%25BF%2582
下地と箔に関してわかりやすく解説されているブログがあったので載せておきます。



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上村松園

こんばんは、今日は上村松園について、お話しします。 

*概要*
生没年 1845-1949年
時 代 明治時代
居住地 京都
分 類 帝国芸術院(日本芸術院)
特 徴 高貴でしとやかな女性像
代表作 序の舞
その他 女性画家

 

 


上村松園は、明治時代の女性日本画家。 
女性の目線から、江戸や明治の風俗、古典から切り取った女性像を描き続けた、美人画の名手です。
師匠は幸野楳嶺と竹内栖鳳
1948年女性として初めて文化勲章を受章。

 

 

 

*高貴でしとやかな女性像*

上村松園の描く女性像は、静かですが凛々しく、強い意志を感じます。

f:id:fumi23art:20200503175950j:image

(写真)序の舞 上村松園 1936年 東京藝術大学 重要文化財
松園の言葉で
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである」

というものがあります。

このような観点も、女性ならではの発想だったのでしょうか?

 

 

 

いかがだったでしょうか

内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください

 

それでは、また明日

 

* * * * *

投稿 2020.05.02

更新 

参考 

片岡珠子

こんばんは、

今日は片岡球子について、お話しします。

 


*基本情報*

生没年  1905-2008年

時 代 昭和から平成にかけて

出 身 北海道

居住地 神奈川県

分 類 日本芸術院

代表作 富士山・面構

特 徴 型破りな構成・大胆な色使い

その他 文化功労者文化勲章受章者

 

 


片岡珠子は、院展(日本芸術院)の日本画家で、103歳まで生きた、長寿の女性画家です。

型破りな構成と大胆な色使いから、一時期は非難の嵐だったようです。


はじめは帝展(現日展)に出品していましたが、3度落選。

その後院展で初入選しました。

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(写真)琵琶 片岡珠子 1930年

そのあと、何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあったとか。

この頃から30年近く、私たちがあまりイメージのない作風で描いていたようです。

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(写真)渇仰 片岡珠子 1960年

 

 

*面構シリーズ*

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(写真)面構 足利尊氏 片岡珠子 1966年 神奈川県立美術館

1966年頃から、「面構(つらがまえ)」というシリーズを生涯にわたって描きました。

面構シリーズは、戦国武将、禅僧、浮世絵師など、歴史上の人物を、現存する肖像画や当時の風俗などを取り入れながら描いたものです。

面構、という言葉には、形相という意味のなかに強そうな、という意味もあるようです。

 

 

 

*富士山シリーズ*

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(写真)山(富士山) 片岡珠子 1964年 北海道立博物館

有名な富士山シリーズを描き始めたのはこの頃。珠子が59歳の時です。

富士山を描きはじめた理由は、「簡単だと思ったから」

しかし描いていくうちに、富士山の難しさを知り、永遠のテーマとするようになりました。

 


ちなみに、珠子のデッサンはマッキーでゴシゴシ描いていきます。なかなか情熱的ですね。

 

 

 

いかがだったでしょうか

内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください

 

 


それでは、また明日

 

* * * * *

投稿 2020.04.25

更新 

参考 

川端龍子(川端龍子)

こんばんは、

今日は川端龍子(かわばたりゅうし)についてはお話しします。


実は、筆者が住んでいる広島では、5月31日まで広島県立美術館で展示される予定でしたが、今回の新型コロナウイルスの関係で当面休館。

楽しみにしていたのですが、5月になってからも行けるかどうかわからないですし、難しいかなと思っています。

ここで自分への慰めを込めて、まとめてみました…笑

 


*概要*
生没年 1885-1966年
時 代 近代
居住地 東京
特 徴 規格外に大きい作品を制作する
代表作 爆弾散華
内 容 「会場芸術」を主張した人物
     目標は大衆の心をつかむこと

 

 

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(写真)炎庭想雪図 川端龍子 1935年 
南国に生えるバナナの木に雪が積もっています。
現実ではありえないようなものの組み合わせですが、龍子曰く
「南国に雪が降っている様子を見て、涼むために描いた」
たしかに、そう言われれば納得ですね。
龍子は大衆の心に寄り添い、つかむような絵を描くことを生涯目標とした画家でした。


龍子はもともと西洋画を描いていましたが、アメリカへの留学で西洋画の限界を感じ、ボストン美術館に展示されていた絵巻物を見て日本画に転向しました。

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(写真)平治物語絵巻(一部) 13世紀 ボストン美術館
こちらが、龍子が日本画へと転向するきっかけとなった絵画と言われています。
ボストン美術館には、当時の日本では重要視されていなかった、奇抜で異端な日本の絵画がたくさんありました。
日本では見る機会もなかったそれらの作品に触れ、龍子はこれからの日本画の将来性を見たのかもしれません。

 

 

*規格外に大きい作品を制作*

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(写真)爆弾散華 川端龍子 1945年 259.0×194.0
こちらの作品は爆弾の風圧によってなびく野菜や草花を描いたもの。
描かれたのは終戦の年の1945年。戦時下の日本の空爆被害を想い、描いた絵だと言われています。

 

この当時、2.5メートルもあるような大きさの絵画はありませんでした。
それに付け加え、特にこちらの作品に関しては、モチーフ(題材)は草花です。
普通、現代でも草花をこのような大画面には描きませんよね。
しかし、大画面で描くことで、爆風になびく野菜や草花が強調されているようにも見えます。

龍子が大きな作品にこだわって制作するのには訳がありました。
龍子は「会場芸術」をうたった人物としても知られています。
会場芸術とは、展覧会で作品を見てもらうことを前提とした絵画作品ということ。
龍子が生きた時代の絵画は、普通床の間や部屋の中飾って鑑賞するものでしたが、これからの時代は、大きな会場を借りて、たくさんの作品を集めて鑑賞する時代が来る、と龍子は予想しました。
そのため、展覧会場で飾ることを想定した大きな絵を描いたのです。


ちなみに、龍子は驚くほど大きい作品を制作していますが、作品の全体像をほとんど見ることなく制作するとか。
全体の確認は、完成直前、調整のために少し下がって見る程度だそうです。
龍子は全体を見なくても、頭の中で完成像が見えている人だったのかもしれません。

 

 

いかがだったでしょうか

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それでは、また明日

 

* * * * *

投稿 2020.04.18

更新 

参考 

横山大観

こんばんは、

今日は横山大観について、お話しします。


*概要*
生没年 1868-1958年
時 代 近代
居住地 東京
分 類 日本美術院
代表作 生々流転
技 法 朦朧体(もうろうたい)
その他 岡倉天心の弟子

 

 

f:id:fumi23art:20200417164915j:image

(写真)屈原(くつげん) 横山大観 1898年 厳島神社
屈原とは中国戦国時代の政治家。王への反逆を1人見抜き助言するも聞き入れられず、国の将来に絶望して自殺した人物として知られています。
大観はこの屈原を、師匠である岡倉天心に重ねて描いたと言われています。
当時は日本画壇の再編期。横山大観含む岡倉天心一派は世間から受け入れられず苦しい時代を長く過ごしました。
大観は絵を描くときは部屋に誰も入れず、生涯弟子も取りませんでした。
大観曰く、「自分が未熟なのに弟子を取って教えるなどおこがましい」
ストイックで完璧主義な性格だったのでしょうか。


*朦朧体(もうろうたい)*
朦朧体(もうろうたい)とは、はっきりとした輪郭を描かない独特の描き方です。
師匠の岡倉天心に「空気を描くことはできないか」と言われ、生み出した新しいだと言われています。
しかし、当時の批評家や画家にはなかなか理解されず、悪意をもって朦朧体と呼ばれていました。

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(写真)生々流転 横山大観 1923年 東京国立近代美術館 重要文化財
ちなみに、大観は「ぶっつけ本番」で描のだとか。
そのため、描き直しの量がすごいらしく、1枚を描くのに2.5枚描き直していたようです。
私にはとてもまねできません。

 


*大観と雲肌麻紙(くもはだまし)*

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雲肌麻紙とは、強さと滑らかさがあり、使いやすい日本画用(絵画用)の和紙で、現在日本画で最もよく使われている和紙です。
実は、この雲肌麻紙。大観の和紙へのこだわりからできたと言っても過言ではないのです。

大観は「強くて柔らかく、細密な描写のしやすい日本の絵画用の和紙が欲しい」と考えていましたが、当時の日本にはそのような和紙がありませんでした。

大観からの注文を受け、岩野平三郎製紙所が何度も試行錯誤して作ったものが、雲肌麻紙。

制作した岩野平三郎製紙所も「日本の和紙を作るぞ」という意気込みだったと聞きます。

良いものには良いストーリーがありますね。

 

 

いかがだったでしょうか

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それでは、また明日

 

* * * * *

投稿 2020.04.17

更新 

参考 岩野平三郎製紙所 https://www.iwanoheizaburouseisisho.com/

竹内栖鳳

こんばんは、今日は竹内栖鳳(たけうちせいほう)についてお話します。

 


*基本情報*
生没年 1864-1942年
時 代 昭和
出身地 京都
分 類 京都画壇
代表作 大獅子図
特 徴 西洋のリアリティ表現を取り入れた
その他 近代日本画の先駆者
    様々な画壇・流派を勉強した
    欧化主義(おうかしゅぎ)


栖鳳が生きた時代では「東の大観・西の栖鳳」と評されていましたが、現在はあまり知られていない画家でもあります。また当時の絵画界としても、表現や描き方が斬新だったため、なかなか受け入れられなかった画家でもありました。

 

 

*様々な画壇・流派を勉強した*

当時の絵画界では、それぞれの流派で描き方が違い、それぞれが独立していました。
しかし栖鳳は、何か一つの流派にこだわることなく、様々な流派のいいと思う所を積極的に取り入れ、絵を描きました。

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(写真)保津川図 1890年頃 70.3cm×110.3cm 東京国立博物館

様々な画壇の作風をまねて取り入れるその姿勢は、まさに近代の画家のようですね。

 


精密なデッサンの丸山派・力強い線の狩野派・ふわっとした背景が特徴の四条派、すべての画風を取り入れた作品を作り、非難を浴びたこともあります。

 


*西洋のリアリティ表現を取り入れた*
竹内栖鳳は西洋のリアリティ表現を日本画に取り入れた人物として知られています。
栖鳳の絵はこれまでの日本画とは表現が全く違い、ドキッとするほど細密で描写的なリアリティ表現です。

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(写真)これまでのライオン図 (唐獅子図屏風 伝永徳筆隻)

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(写真)竹内栖鳳のライオン図 大獅子図 1902年頃


このように、近代化を進めるためにヨーロッパの様々な制度や文化を取り入れようとした思潮のことを欧化主義(おうかしゅぎ)といいます。
1880年代の日本政府は、欧米諸国に「日本が近代化した」という事を認めてもらうために、欧化政策という、文化・制度・風俗・習慣をヨーロッパ風にする政策を採りました。

 

 

いかがだったでしょうか

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それでは、また明日

 

* * * * *

投稿 2020.03.30

更新 

参考 

東山魁夷について

<サイト移転のお知らせ>

いつもご覧頂き、誠に有り難うございます

この度、本ブログを新しいサイトへ移転することになりました。当面はこのままにしておく予定ですが、移転作業完了後は削除予定ですので、引き続きご覧になりたい方は新しいサイトの方へブックマーク等をよろしくお願いします。

移転先の記事はこちら

https://keywart.net/higashiyama-kaii

 

*基本情報*

生没年 1908-1999年
時 代 明治
居住地 千葉県

分 類 日本芸術院

代表作 残照・道・白い馬など

特 徴 印象的な青・単純な構図

その他 緻密なデッサンを行い制作する

    遅咲きの画家

 

 

東山魁夷は、戦後の日本を代表する画家です。

今となっては有名な画家ですが、実は遅咲きの画家だったようです。

東山魁夷の生きた時代は、画壇が再編成されたり、戦争が始まったりと、画家にとっても日本にとっても激動の時代だったようです。

 

東山魁夷の才能が開花したのは終戦後の1947年、39歳の時です。

この頃、魁夷は大自然と触れ合うことで風景画家としてやることに決めました。

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(写真)残照 1947年 東京国立近代美術館

この絵の背景には、戦後間もない頃、戦争で母と兄弟を亡くしたなどの身辺の変化もあったようです。

空気を感じさせる巧みな色遣い、はっと息を飲んでしまいますね。何か壮大で強いメッセージを感じます。

 

 

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(写真)道 1950年 

この作品は一見単純であっさりした印象を受けますが、緻密で詳細なスケッチの元に生まれた作品であることが知られています。

この作品に関しては、生えている雑草の種類や生えかたなどを詳細に、いくつものスケッチをした習作が残っています。

 

また、この時代は戦後の日本、これからどう生きていくか、人々がそれぞれの「道」を模索している時代でした。

この作品はそんな時代背景にぴったりはまった作品で、この頃から魁夷は大衆の人気を得るようになりました。

 

ちなみに、「東山魁夷」といえば、よく見るのは青い絵だと思いますが、魁夷が青を基調にした作品を描くようになったのは1962年ごろ。

北欧のさまざまな「森」と「湖」を巡った結果あのような絵になっていったようです。

(著作権の関係で写真が難しいため解説はまた今度…)

 

 

 

「私が常に作品のモティーフにしているのは、清澄な自然と素朴な人間性に触れての感動が主である。」

日経ポケット・ギャラリーより 1991年

 

 

 

 

 

* * * * *

投稿 2020.

更新 

参考