つれづれ美術手帖

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富岡鉄斎

こんばんは、今日は富岡鉄斎について、お話しします。

 

 

*概要*
生没年 1837-1924年
時 代 明治・大正期
居住地 京都
分 類 帝国美術院 文人
代表作 妙義山図・泥八丁図
特 徴 博学な知識に裏打ちされた画風 奔放な筆線
技 法 様々な絵画様式を取り入れた独創的な画風
題 材 中国古典 風景・風俗・花鳥・神仙など
その他 儒学者。日本最後の文人と謳われる。

 

 

富岡鉄斎は、様々な絵画様式を取り入れながらも、個性的で奔放な筆線で、日本絵画界に新風を吹き込みました。
博学な知識を持ち、中国古典を題材とした作品を多く描きました。
彼の作品は生涯で2万点ともいわれ、80歳を過ぎても衰えを知らず、傑作を多く残したと言われています。
鉄斎の絵画は当時から人気で、晩年には帝国美術院の会員となったり、審査員を務めています。
また、文人として世界で高い評価を受けています。

 

 

*最後の文人
文人とは、学問を修め文章をよくする人という意味。
ここでの「学問」とは主に儒学を言い、
「文章」とは文章能力だけでなく字の技術的な部分も含まれているそうです。
つまり、文人とは、
儒学を中心とした幅広い知識を持った人物 かつ
・優れた文章力と優れた字を書く技術を持った人物
ということになります。

鉄斎は幼少の頃から勉学に励み、15歳頃から国学・漢学・陽明学・詩文などを学びました。
座右の銘は「万巻の書を読み、万里の道を往く」
その言葉を実行すべく、鉄斎は古今東西の書を生涯で数万冊読み、日本各地を旅しました。
旅すがら、多くのものを写生したことも知られています。

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(写真)旧蝦夷風俗図 富岡鉄斎 
1874年(明治7年)に北海道を旅した時に描いた鉄斎の代表作。
アイヌの風俗や祭りを題材として、画面上に自由に構成して描かれています。

 

 

文人画*
文人画とは、文人が趣味で描いた絵のことを言います。
職業画家が描く院体画とは違い、画は学問のついでで、余技という考え方のもと描かれました。
鉄斎も、例外なく絵を余技と考えており、いつもこのような言葉を発していたそうです。
「自分は意味のない絵は描かない」
「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」

・・・とはいいつつ、賛文に用いられた漢文は自作でなく古典的なものが多かったようです。
本人は否定していますが、詩の才能よりも画の才能があったのではないか?という話もあります。

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(写真)妙義山図・泥八丁図 富岡鉄斎 1906年 布施美術館
こちらは真景図といい、実在する景色を描いたものですが、本当に?と言ってしまいそうです。
妙義山群馬県にある山です。妙義山の現在の写真を見る限り、こんな風景は見られないですが…このファンタジーともいえる構成力には圧巻です。
こちらにも賛がありますが、意味は調べても出てきませんでした。どうやら美術館に行けば解説付きでわかるようです。
次に見に行きたい美術館リストに追加です。笑

 

 

 

いかがだったでしょうか
内容の認識違いなどありましたら、ぜひコメント等で教えてください。
それでは、また明日
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投稿 2020.05.18
更新 
参考