司馬江漢
*司馬江漢(しばこうかん)*
生 誕 1747-1818年
時 代 江戸時代後期
居住地 江戸
分 類 西洋画・銅版画など
代表作 三囲景など
特 徴 写実的・富士山を好んで描いた
その他 様々な絵画を制作した
(写真)銅版地球全図 司馬江漢 1793年
天動説・地動説の説明、地球全体の気候や産物、極圏などが書かれている書の図。
江漢は天文・地学・動植物などの西洋博物学、自然科学に興味を持ち、啓蒙書も残しました。
司馬 江漢は1747年、江戸の町家に生まれました。「司馬」の姓字は、芝新銭座にちなんだものだそう。
好奇心旺盛で自信家な性格で、「絵画の世界で後世に名を残そう」と考えていた江漢は、様々な絵画に触れ、意欲的に制作を続けました。
ただ、晩年には人付き合いが煩わしくなり、自分の死亡通知を送ったそう。
少し不思議な人ですね。
様々な絵画を学び、絵を描いてきましたが、一貫して言える特徴は写実的であるということ。
江漢は「見たままを正確に写し取る」ということをモットーとして絵画制作に取り組んだようです。
*好奇心旺盛で多くの流派を学ぶ*
野心家だった彼は、絵画に対する意識も高く、様々な流派・絵画を学びました。
ここからは、彼が学んだ流派や絵画を、順を追ってみていきたいと思います。
(順番は諸説ありますが通説でお話しします)
①狩野派
1761年(江漢15歳)、父の死をきっかけに、狩野派の狩野美信に弟子入りしました。
ただし、狩野派の画法に満足できなくなってしまった江漢は、5年ほどですぐ他の絵画を学ぶようになったそうです。
②浮世絵
1765年(19歳)の頃、鈴木春信にも学び浮世絵師となり、「鈴木春重」と名乗って極端な遠近法を使用した背景が特徴の錦絵などを描きました。
鈴木春信は版画作品が多くありますが、肉筆美人画なども描いていたそうです。
③西洋絵画
1771年(25歳)頃から、彼のヨーロッパ的リアリズムにいたく感嘆し、西洋画法にも通じた宋紫石の門に入ります。
その後、主として西洋絵画を描くようになりますが、それと前後、または平行して、江漢はまた違う絵画にも挑戦します。
④漢画
南蘋派(なんぴんは)
南蘋派とは、中国清代の画家・沈南蘋(しんなんぴん)の影響を受けた、写実的で色彩豊かな花鳥画を得意とする流派です。
当時、南蘋派の表現は流行の先端だったそう。
江漢は流行にも敏感だったようですね。
*結果*
1788年に長崎へ一人旅をした中で、初めて多量の西洋の油絵を目にしたことから、最終的には西洋絵画・油絵の制作を取り組むことに決めました。
江漢はキャンバスの代わりに絹の布を、油絵の具の油の代用としてえごま油を使って絵を描いたそう。
えごま油は当時、傘の防水や漆工芸の彩色鳳として使われていましたが、江漢はそれを油絵に転用し、大量の作品を描いたことで美術史的にも重要な人物となりました。
(写真)相州鎌倉七里浜図 司馬江漢 1796年頃 屏風 国宝
現存している江漢の洋画作品のなかでも代表作として知られる作品。
江漢は、富士山の画家とも呼ばれるほど、富士山を好んで描いた画家と言われています。
街中で育った江漢にとって、自然豊かで厳かな富士の姿は魅力的だったようです。
江漢は西洋画法と油絵の技法を用いて富士を始めとした風景画を描き、各地の社寺に奉納することで洋風画の普及に貢献しました。
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投稿 2020.12.18
更新
参考
文化遺産オンライン 相州鎌倉七里浜図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/376934
感性を育てるアートチャンネル on stand.fm
https://stand.fm/channels/5f5aa2a0f04555115d2e85e4
アプリもありますが、ダウンロードしなくても視聴頂けます。