つれづれ美術手帖

アート関連のアウトプットブログです。

日本の着物文化

こんばんは
今日は日本の着物文化について、お話しようと思います。


*概要*
意味 日本の伝統衣服
発祥 弥生時代
発展 平安時代


現在「着物」と聞くと、布を体の前で重ねて帯で締める服を想像しますが、
着物という言葉は、もともとはその名の通り「着る物(衣服)」という意味でした。
それが、だんだんと「着物=日本の伝統服」という認識が強くなり、
現在では浴衣のような形の服を「着物」として認識するようになっていきました。

弥生時代

着物の文化は弥生時代から始まったと言われています。
最初は、袖口が小さい小袖と呼ばれる着物から、庶民を中心に発展していきました。

ただ、これが現在でいう着物の原型かと言われると、少し不思議なように思います。
それ以前の、縄文時代では動物の皮や繊維でできたものを体に巻く服布を織り身に付けるという意味では、原型として正しいと言えるかもしれません。

この時代では、男女はそれぞれ
男性は 巻布衣(かんぷい)
・・・ 1枚の布を体に巻き付けたもの
女性は 貫頭衣(かんとうい)
・・・布の中央にある穴に頭を通して着るもの
という服を身に付けていました。

古墳時代

古墳時代からは神話色が強く感じられる、よく見る古事記日本書紀に出てきそうな服装となっていきました。
この時代では、上下の分かれた、男性はズボンのようなもの、女性はスカートのような服へと変化しました。

飛鳥・奈良時代

飛鳥・奈良時代には、明確な身分制度ができたため、服装の違いが表れるようになりました。
労働階級の庶民は小袖を使用していましたが、
上流階級の人々は、袖が長い大袖という服装を着用しており、小袖は下着として使用されるようになりました。
服装について、細かな指定ができた時代でもあり、「襟は右が前」という、現在の常識も、この時期に法律で定められたものだそう。
奈良時代あたりから現在イメージする着物の形に近くなってきました。
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(写真)聖徳太子二王子像(模本) 狩野養信模写 1842 年 江戸時代

平安時代

着物の文化は平安時代に大きく進展したと言われています。
それまで、上流階級の人々にとって、小袖は下着として使用されていましたが、平安時代中期ごろから表
着として使われるようになっていきました。
この時代から、女性の服は前開きの服(十二単・じゅうにひとえ)、男性は貫頭衣に襟がついて発展した
ような服(東帯・そくたい)を着るようになりました。
ちなみに、庶民は浴衣のような服装だったよう。
(写真)源氏物語絵巻
室町時代
「着物」という言葉が誕生したのがこの時代と言われています。
小袖と着物は違う服を意味していたそうですが、だんだんとその定義があいまいとなり、小袖=着物と
いう認識となっていきました。
室町時代からはだんだんと武士の時代となっていったため、実用的な服装に少し変化し、手足が出せる
袖や裾の長さまで少し短くなりました。
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(写真)源義経像 作者不明 15~18世紀ごろ 中尊寺

江戸時代

江戸時代には、身分によって素材や色に厳しい制限があり、庶民は色や素材があまり選ぶことができませんでした。
庶民が選べる色は茶・鼠・藍色だけだったとか。
そのため、帯や柄でおしゃれを楽しむ文化が発展していきました。
柄や帯にも多様な特色が見られるようになったことから、日本の着物文化の完成された時期とも見ることができます。
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(写真)大谷鬼次の奴江戸兵衛 東洲斎写楽



いかがだったでしょうか。
今まで私は何となく知っていた、という程度で満足していましたが、時代ごとに変化を少し細かく見ていくと、改めて発見がありました。






内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください


それでは、また来週

* * * * *
投稿 2020.10.02
更新 
参考 
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000001
このサイトでは、各時代毎の、身分や職による着物の変化を見ることができます。


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絵画と対比調和

こんばんは。
突然ですが、みなさんは「対比調和」という言葉をご存知でしょうか?
対比調和とは、補色色相(色相環で真逆にあたる色相同士の色)による調和のことです。
例えば、色相環において、赤とほぼ真逆にあたる色は青緑で、黄色の真逆は青紫です。

この対比調和を意図的に使うことで、コントラストが強くなり,より鮮やかに見えたり、ある部分を強調させたり、目線を持っていかせることができます。
今回はその「対比調和」の観点から、日本と世界の絵画を見直し、それぞれの特徴について考えていきたいと思います。


赤&緑

赤と緑の日本絵画は、有名なものでも平安時代源氏物語絵巻以降、非常に多数見られます。
かえって西洋絵画では、有名なものではヤンファンエイクのアルノルフィーニ夫妻の肖像や、マティスの赤の食卓くらいです。
クリスマスカラーとして有名な配色ですが、西洋絵画ではあまりメジャーな組み合わせではないのかもしれません。

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(写真)源氏物語絵巻 柏木二 1100年頃 徳川美術館 国宝
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(写真)見返り美人図 菱川師宣 1650-1700年 東京国立博物館
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(写真)裸体美人 萬鉄五郎 1912年
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(写真)アルノルフィーニ夫妻の肖像 ヤン・ファン・エイク 1434年 81.8×59.7cm ロンドン・ナショナルギャラリー
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(写真)赤の食卓(赤のハーモニー) アンリ・マティス 1908年


赤&青

赤と青の組み合わせは、アメリカやフランスの国旗にも使われている組み合わせで、西洋絵画でもよく見られます。
特に、宗教画では、マリア様は基本的に赤い服に青いローブをまとっています。
反対に、日本絵画では伊藤若冲動植綵絵くらいにしか使用されている例を見つけられませんでした。
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(写真)大公の聖母 ラファエロ・サンツィオ 1505-1506年頃 84.4×55.9 cm パラティーナ美術館
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(写真)印象-日の出 クロード・モネ 1873年 48×63cm マルモッタン美術館
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(写真)動植綵絵 紫陽花双鶏図 

黄&青

黄色と青の組み合わせは、「この世で最も美しい色の組み合わせ」とも言われている配色です。
良くこの組み合わせを使うと有名なのは、フェルメールです。
また、個人的にはゴッホもよく使っているような気がします。
日本絵画では、赤青の組み合わせと同じくあまり見ません。
黄青の組み合わせが有名な絵画でも見られるようになったのが、歌川広重や鈴木其一の時代であるということから考えると、もしかしたら青色の絵具があまり手に入らないものが多かったという関係から、必然的にそうなったのかもしれません。

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(写真)牛乳を注ぐ女 フェルメール 1658~1659年頃 45.5×41cm アムステルダム国立美術館
よく見ると青の着物の下に赤いスカートまで履いています。色相的に言うととても強い組み合わせですね。
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(写真)夜のカフェテラス ゴッホ 1888年
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(写真)東海道五十三次 庄野 歌川広重 1833-1834年 名古屋市立博物館
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(写真)朝顔図屏風 鈴木基一1840-1845年頃 メトロポリタン美術館
こちらは,絵具としては青・緑を使用していますが、金箔を「黄色」ととらえると,黄・青の関係のようにも見えるので、とりあえずこの分類に。

おまけ

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(写真)両界曼荼羅図 900年頃 東寺 国宝
赤・緑・青を主に使用している絵画の例。
青と緑は色相環で隣り合っている、近似色相のため,青・緑と補色関係にある赤がより強く見えます。
構成の工夫もあり、中央にある大日如来の悟りの世界が神々しく感じられます。




いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください。

それでは、また来週

* * * * *
投稿 2020.09.25
更新 
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奈良美智

こんばんは。
今日は奈良 美智(なら よしとも)について、お話しします。


*概要*
生没年 1959年-
時 代 現代
出身地 青森県
居住地 ドイツ→アメリカ→日本(東京)
分 類 絵画・彫刻 ネオ・ポップ
特 徴 パンク・ロックの影響
代表作 
題 材 人物(子供)
その他 世界的に評価されている美術作家

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奈良美智 SELF‐SELECTED WORKS PAINTINGS」より



奈良美智は日本の現代美術の第二世代を代表するひとり。
特徴的な、こちらをじっと見つめる子供の絵画が有名です。

キーワードは「アート以外でお金をかけない」

奈良美智は、青森県の農村地域で、共働きの両親の下で育ちました。
空想をしたり漫画を見たり、ペットと遊ぶなど、一人で自分の時間を過ごすことが多かったそう。

武蔵野美術大学に入学しましたが、大学に行くことへの意味をなかなか見いだせず、アルバイトしてためたお金でヨーロッパを旅し、学費が払えないため1年生で中退。
その後、愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、そのまま愛知県芸修士課程を修了しました。
愛知県芸に入学した理由は、学費の安さから。

学生時代は絵画塾の講師のアルバイトをしながら、お金を貯めてはヨーロッパへ旅に行ったそう。
修士課程修了後は、ドイツの芸術系大学へ入学し、ヨーロッパのアートを学びました。
ドイツを選んだ理由は、やはりお金がかからないため。
ドイツは学費がタダだから選んだみたいです。
当初はイギリスの方が好きな作家も多く、楽しそうという理由で行きたかったらしいですが、結果的に、イギリスに行っていたら、楽しいだけで、何も学ばなかったかもしれないから、ドイツで良かった、と言っているそう。
ストイックな考え方の持ち主ですね。


奈良は卒業後もそのままドイツのケルン近郊にアトリエ構えて制作に励み、
世界的に評価されるようになった現在では「土地が安い」という理由で東京近郊の田園地帯に転居し制作をしているようです。


パンクロック×アート

奈良は音楽好きとして有名で、子供の頃から聞いていた音楽、とくにパンク・ロックが本人の作品制作に反映されている、と言われています。

奈良の作品は、パッと見た感じではシンプルでかわいらしいですが、表情はむすっとしたような、また、ものによっては鋭く睨みつけるような作品もあるなど、どこか全体として作風として怒りを内に秘めているような感じです。

パンク・ロック文化というのは、もともと反体制的(アナーキズム)な側面を持った文化のため、「潜在的に怒り」を内包しているという点で類似していそうです。

また、パンク・ロックは高価な機材や技の巧みさなどを評価対象とするこれまでの文化に対する反発という一面もあります。
奈良も、これまで「アート」として世界的に扱われてこなかったアニメ文化風のタッチで描いている、という一面がありますが、そこも少し似ているような気もします。

現在でもラップ文化が世界的にも大衆受けするようになってきていますが、世の中に対する批判的感情を美術として昇華させているところが、奈良がアメリカで評価された理由の一つでもあるのかもしれません。


本人の言葉より
「自分はもっとリアルな現実という壁に向かって立っている」




いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください

それと、自分のスキルアップのため、ラジオを始めました。
内容は、ここでの話を「感性を育てる」という観点からまとめ直したもの。
興味ありましたらこちらも聞いて頂けると嬉しいです。
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それでは、また来週

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投稿 2020.09.18
更新 
参考 
奈良美智 本人ブログ
http://ynfoil.exblog.jp/
アートペディア
https://www.artpedia.asia/yoshitomonara/
金沢工芸大学 奈良美智インタビュー記事
https://www.kanazawa-bidai.ac.jp/index/98bidaisai/nara.html

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葛飾北斎と雅号

こんばんは。今日は葛飾北斎の話の続き、北斎と雅号について、お話しします。

雅号とは、画家としての名前のことで、画号とも書きます。
北斎は生涯で約30回あまりも雅号を改名したことで有名でもあります。
彼の雅号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたためとする説もありとか。

雅号の変化により年代の違いがわかり、それぞれに違った表現が見られるところも北斎の魅力です。

1760年 北斎20歳 「勝川春朗(しゅんろう)」

当時有名だった役者絵師、勝川春章(しゅんしょう)のもとに入門し、20歳の頃、春朗の名を得て、細判役者絵師として浮世絵の世界に登場します。
好奇心旺盛な性格から、師の言うことを聞かず内緒で狩野派や洋画を学び、破門にされてしまったそうです。

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(左)1779年 Teioコレクション
北斎デビュー作とされる。
(右)瀬川菊之丞の図 正宗娘おれん 1779年 

1796年 北斎36歳 「宗理(そうり)」

前年に琳派の町絵師、俵屋(たわらや)宗理を襲名したものと考えられています。
この頃はたくさんの肉筆作品を描き、自らの個性を前面に出すようになっていくのです。
オランダの風景版画などに影響を受けたのもこの頃です。
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(写真)隅田川 渡の雪
宗理風のほっそりした美人が描かれている。

1805年 北斎45歳 「葛飾北斎

北斎辰政」の略称で、日蓮宗の北斗七星信仰にちなんでいるそうです。
他よりも北斎の名が世に知られているのは、これ以降の改号で「北斎改め…」というように、北斎を軸として改号を記していたため。
それだけ北斎期に有名になった、ということかもしれません。
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宗理期とは違った妖艶な美人肉筆画を描きます。

1810年 北斎50歳 戴斗(たいと)

代表作となる『北斎漫画』を刊行した時期です。
50歳を過ぎてから描いたとは、驚きです。
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1820年 北斎60歳 「為一(いいつ)」

富嶽三十六景』など浮世絵の錦絵版画を連発
現代では定年を迎える60歳を過ぎて、葛飾北斎はまたしても新たな雅号を使い始めます。
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1835年 北斎75歳 「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」

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現在聞くと(昔もですかね?)ネタでしかない雅号。前回もご紹介した通り最晩年とは思えない迫力ある作品です。




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投稿 2020.09.11
更新 
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葛飾北斎 肉筆画

こんばんは、今日は葛飾北斎の肉筆画について、お話しします。

葛飾北斎は、浮世絵版画で有名ですが、肉筆画も多く描いた人物です。

以前ご紹介したことがありますが、
浮世絵版画は、版元から依頼があり、原画を描く人・彫る人・摺る人と多くの人間が関わった共同制作の作品です。
そのため、浮世絵版画というものは必ずしも原画師本人が描きたいものでなかったりします。

北斎の肉筆画には、版画では見られない繊細さと力強さがあり、また違った魅力があります。
今回はそれらの一部をご紹介します。



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(写真)四季耕作図屏風 葛飾北斎 1800年頃 岡田美術館蔵
優しい色彩農村風景を描いた一枚。
北斎が1年間農作を行った体験から描くに至ったそうです。
よく見ると田植えや土おこしをしている様子や、カラスの飛んでいる様子を繊細に描いています。

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(写真)二美人図 葛飾北斎 1801-1804年 MOA美術館 重要文化財
北斎45歳、「葛飾北斎」を名乗り、どの流派にも属さない独立した絵師としての再出発をした頃の作品です。
やわらかな人物表現は土佐派を思わせるやまと絵風であり、色調は独自のセンスか、ほかの作品よりも落ち着きのあり繊細な印象を受けます。

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(写真)酔余美人図 葛飾北斎 1807年 26.5x32.3 鎌倉国宝館
酒に酔い三味線を入れる箱にもたれている芸者を描いた一枚。
着物は荒々しいタッチで、布の重厚感を感じます。
顔や手の表現は、服の表現とは真逆に繊細を極めています。
版画では描き切れないごく細い線で、紙の分け目を丁寧に描いているところも必見です。


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(写真)夏の朝 葛飾北斎 19世紀初頭 岡田美術館
慌ただしい女性の朝の身支度の様子を描いています。
服が乱れている様子は、こちらも太い線で表現されています。
タイトルにもあるように、金魚鉢や夏の植物なども描かれています。

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(写真)日新除魔(にっしんじょま) 葛飾北斎 1843年頃
当時、北斎が日々の日課として描いた作品群です。
躍動感のある筆運びやおどろおどろしい表現や、水墨画ならではのみずみずしさが感じられます。
80代の老年期と思えない作品群ですね。

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(写真)鳳凰図 葛飾北斎 東町祭屋台
どこから見てもこちらを見て睨んでいるような様子から、「八方睨み鳳凰図」というあだ名が付いている作品。
今にも動き出さんばかりの迫力で見る者を圧倒します。
高価な顔料を豪華に使用した極彩色の鳳凰は、北斎最晩年の傑作を呼ぶにふさわしい作品です。


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投稿 2020.09.04
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寄木細工

こんばんは、今日は寄木細工について、お話しようと思います。

*概要*
意 味  木を組み合わせで模様を作る伝統工芸
時 代  江戸時代末期
地 域  神奈川県箱根
分 類  工芸
代表作  秘密箱箱など
題 材  日本の伝統模様


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寄木細工は、様々な色合いの木を組み合わせ、貼り付けることで模様を作り出す伝統工芸です。
寄木細工は、江戸時代末期、木材の種類が豊富だった神奈川県箱根で生み出されたといわれています。
現在、箱根の山林は国の保護区となっているため、材料には他の地域のものが使用されているそうです。
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(写真)箱根駅伝のトロフィーは、寄木細工でできていることで有名です。

作り方

寄木細工は、長細く加工した木を膠(にかわ・日本の伝統的な接着剤)でぴったりと張り合わせ、模様を作り出します。
寄木細工で作り出される模様は、日本の伝統模様の市松や麻の葉、青海波など。細密で素敵な模様の数々で、見る人を魅了させます。
張り合わせたものは、そのまま使用する場合もありますが、多くは金太郎飴のように薄く切り、箱などの表面に貼り付けます。
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(写真)秘密箱 仕掛けを解かないと開かない箱

昔から引き継がれている伝統的な寄木細工は、上のように緻密な模様で敷き詰められたもののことを言いますが、最近は簡略・洗練されたデザインもあり、多種多様な変化を遂げています。
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海外の寄木細工

寄木細工は海外にも存在します。
以下では、少しそれらについて、ご紹介します。

*マーケトリー
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16世紀頃から、ヨーロッパで生まれた寄木細工。
主に家具などの表面を装飾するために使われており、主に木を使用しますが他にも骨や貝の真珠層、金属なども使用することがあります。

*パーケトリー
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こちらもヨーロッパで生まれた寄木細工。
マーケトリーと何が違うの?という感じですが、こちらはおもに幾何学模様の細工を施します。

*タラセア
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少なくとも19世期頃にはあったとされるスペインの寄木細工。
もともとは、中世アラビア人によってスペインに伝えられたもので、木材を中心として様々な素材がしようされています。
手の込んだ細工の家具や工芸品に現在でも広く活用させています。
それぞれ特徴の違う木材や貝、動物の角などが素材になって豊かな表情を表現してくれています。





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投稿 2020.08.28
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香月泰男

こんばんは
今日は香月泰男について、お話しようと思います。

*概要*
生没年  1911-1974年
時 代  昭和
居住地  山口県
分 類  油絵
代表作  シベリヤ・シリーズ
特 徴  
その他  昭和を代表する洋画家

香月 泰男(かづき やすお)は、昭和を代表する洋画家のひとりです。

1931年、東京美術学校に入学し、藤島武二のもとで学びました。
藤島武二は、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮で、ロマン主義的な作風の女性人物画を描く画家です。
香月自身は、ロマン主義よりも印象派ゴッホピカソ、フォービズム的なヴラマンク梅原龍三郎といった画家によく影響を受け、その表現を学んだようです。

<私の>地球

香月は、ふるさとである山口県三隅をこよなく愛し、「<私の>地球」と語る自宅で、生涯に渡って創作活動を行いました。
香月泰男の掲げたテーマは「愛と自然」
ふるさとの自然や愛する家族を題材とした絵画を多く描きました。
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(写真)雪降りの山陰風景 香月泰男 1934年
国画会展で初入選した処女作
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廃材を利用して作った「おもちゃ」と呼ばれるオブジェも人気です

シベリヤ・シリーズ

シベリヤ・シリーズとは、第2次世界大戦後のシベリヤ抑留の体験をもとにした、57点の作品群です。

香月は、1942年に召集を受け、満州へ。
終戦の年の1945年、満洲終戦を迎えた香月は、その直後にソ連に抑留され、シベリアの収容所で強制労働を強いられます。
およそ2年間、収容所での生活に耐え、1947年5月21日、帰還を果たしました。

香月は帰還直後から1940年代末ごろまで、積極的に戦争と抑留の体験を絵画化しようと試みました。
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(写真)雨〈牛〉 香月泰男 1947年 山口県立美術館
シベリア・シリーズの第1作
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(写真)埋葬 香月泰男 1948年 山口県立美術館蔵

しかし、数点描いたのちの1950年頃から、香月はシベリヤシリーズを描くことを中断しました。
その頃の作品は、身近な果物や風景を、これまでと違う明るい色彩で描かれました。
香月はシベリアを忘れたかったのでしょうか。
シベリヤ・シリーズが再び描かれ始めたのは1960年頃から。
57点ある作品群のうちほとんどは、この時期に描かれました。

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(写真)涅槃 香月泰男 1960年 山口県立美術館

最後に、香月の言葉を2つほどご紹介します。

「シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している」

「戦争を体験することがなかったなら、単調に一生を費やしてしまうことになっていただろう。私の一生のど真ん中に、そのことがあったがために、私が私になり得ようとするのに役立つ」
『私のシベリヤ』文藝春秋 1970年より





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それでは、また来週

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投稿 2020.08.21
更新 
参考 香月泰男美術館 https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/kazukiyasuo/

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