つれづれ美術手帖

アート関連のアウトプットブログです。

渡辺省亭

*渡辺省亭(わたなべせいてい)*
生没年  1852-1918
時 代  明治・大正
居住地  江戸・浅草
分 類  日本画
特 徴  卓越した描写力・西洋の写実表現を取り入れた花鳥画
題 材  歴史画・花鳥画美人画
受影響  菊池容斎印象派
その他  初めてパリに渡った日本画


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(写真)渡辺省亭展 ポスター(展覧会詳細は下に記載)
渡辺省亭は代々秋田藩の札差(ふださし・武士の給料である俸禄米を換金する業者のこと。現在の金融業のようなもの)の家の次男として生まれました。
子供の頃から絵ばかり描いており、またそれが上手だったため、12歳で商人となるために奉公に出るも送り返され、16歳で歴史人物画を得意とした日本画家・菊池容斎のもとに弟子入りし、指導を受けました。

*巧みな筆さばきと師・菊池容斎の指導*

渡辺省亭の特徴はその巧みな筆さばきにあります。
刷毛の跡をわざと残すことで勢いを表したり、線を残さずきれいにぼかしたりすることで、写実的な表現を可能にしました。
彼の作品からはまるで光の様子や空気感が伝わってくるようです。
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(写真)花鳥魚蝦書冊 渡辺省亭 メトロポリタン美術館
水の中にいる様子を、線を一切描かずきれいなぼかしにより描いています。
葉の表現は細くも勢いをつけたタッチ、目や鱗は丁寧に、など、巧みな筆での描き分けがされています。

この省亭の切れ味の良い筆さばきは、師匠である菊池容斎の指導によって培われたと言われています。
菊池容斎の指導は独特で、「書画一同」の考えのもと、入門して3年はひたすら習字をさせられたそう。
そして3年間みっちりしごかれたかと思うと、今度は放任。先代の技術は受け継ぎながらも自由にやりなさいという指導に変わりました。
また、町へ出たときは見かけた人の服装や様子について事細かく質問されたそう。
このような体験から、省亭の細部までこだわった描写力が生まれたと言われています。
4年後、理由不明に破門され師のもとを去ることになりましたが、3年経ったのち、呼び戻されます。破門にも容斎の指導意図が隠されているのでしょうか?
聞いているだけでもだいぶ破天荒な師ですが、省亭は生涯、容斎を慕い続けました。

*初めてパリに渡った日本画家*

省亭は日本画家で初めてパリに渡った人物です。
日本画家として独自で渡仏したわけではなく、貿易会社の嘱託社員として渡仏しました。

1875年、省亭は輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社に就職。
そこで七宝焼などの図案を描くことで評価され、パリ万国博覧会での出品・受賞を機にパリに渡ることになりました。
省亭がパリに滞在した期間は約3年間。
滞在中に、省亭はエドガードガを始めとした多くの印象派の画家と交流しました。
省亭は彼らとの交流の中で、日本の趣はそのままに、印象派の色彩表現や写実表現を取り込んだ作風を切り開きました。
印象派の画家にとっても省亭の画風は新鮮で、多くの印象派の画家たちが彼の筆さばきに驚嘆し、影響を受けました。

海外で評価された人物ではありますが、生まれ育った江戸の、完璧な美しさよりどこか抜けている、小洒落れたものが美しいとする「独特な美意識」を生涯大事にしてきたことでも知られています。
その美意識は、なるべく書き込みを少なくして、大事なところだけ描き、メインでないものを書き込まず「抜け感」を出す表現や、全体的に薄塗りの表現から見て取る事ができます。
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(写真)「渡辺省亭ー花鳥画の孤高なる輝きー」表紙 岡部昌幸 東京美術発行¥2000−
メインの鶴は部分的に書き込みながらも、特に左下の幹は太い筆で一発書きしたかのような大胆な表現。
それにも関わらず遠くから見るとしっかり書き込んでいるように見えるところが省亭の巧みな技術を物語っています。


帰国後、万博や個展などで国内外から高い評価を受けますが、国内では画壇に所属することを嫌い距離を置いていた事もあって、次第に展示の機会が少なくなっていき、長い間忘れられることになりました。

令和3年現在、渡辺省亭100回忌を期に展覧会が企画され、新たに注目を浴びています。
5月7日現在、新型コロナウイルス感染対策のため臨時休館中ですが、23日まで展示の予定のため、興味のある方はぜひご覧になってください。

* * * * *
投稿 2021.05.07
更新 
参考 
渡辺省亭-欧米を魅了した花鳥画
https://seitei2021.jp/
会期 2021年3月27日(土)~5月23日(日) ※現在から臨時休館
時間 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 東京藝術大学大学美術館(台東区・上野公園)
巡回 (愛知)岡崎市美術博物館 2021年5月29日(土)~7月11日(日)
   (静岡)佐野美術館 2021年7月17日(土)~8月29日(日)

加島美術hp https://www.kashima-arts.co.jp/exhibitions/watanabe_seitei/

wikipedia 渡辺省亭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%9C%81%E4%BA%AD

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狩野探幽

狩野探幽(たんゆう)*
生没年  1602-1674年
時 代  江戸時代初期
出 身  山城国(京都府南部)
居住地  京都→江戸
分 類  狩野派
代表作  二条城障壁画
特 徴  木を幹から描き始める
画 題  山水、人物、花鳥など
 父   狩野孝信
その他  早熟の天才絵師


*早熟の天才絵師*
探幽は幼いころから画才を発揮し、1617年、探幽16歳の時に江戸幕府の御用絵師となり、画壇の頂点に立って多くの障壁画を手がけました。
なかでも二条城障壁画は探幽の代表作とも言われています。
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(写真)二条城二の丸御殿 大広間 狩野探幽 1626年 重要文化財
二条城は、京都での徳川家の権威を表す建築物として、徳川家康が1603年に建て、家光が1626年に増築し現在の様相となりました。
大広間は最も格式高い部屋で、大政奉還が行われた場所でもあります。当然、当時のトップである探幽が担当しました。
松は長寿と繁栄を表すモチーフで、徳川の絶対的でゆるがない権威を表現した作品。
上座に座る将軍がより遠くに感じるよう、上座に向かって枝を伸ばす遠近法がとられています。
狩野永徳の豪華絢爛な画風を受け継ぎ、豪華で壮大に松の木が描かれています。
地面や根を描かず幹から描き始める手法は探幽以降の絵師の特徴です。


探幽は1626年に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとしました。
豪華絢爛な画風で描いていますが、この後、水墨の濃淡でやわらかい表現もするようになりました。

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(写真)大徳寺方丈 狩野探幽 1641年
84面もある襖絵。
水墨を主体として濃淡で遠近感を表現しています。
余白をたっぷりと使い、穏やかで空間の広がりを感じます。

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(写真)大徳寺法堂雲竜図「鳴き竜」 狩野探幽 
大徳寺法堂の天井に描かれている作品。
鋭い目つきでこちらを見ている姿にはすごみがあります。
手をたたくと敷き瓦が共鳴して音が反響し、龍が鳴いたように聞こえることから「鳴き竜」と言われているそう。



*模写好き*
探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残しています。
探幽の古画模写は多数現存しており、そのなかには現在失われた作品もあるため、日本絵画史研究上、貴重な資料となっています。
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(写真)探幽縮図 狩野探幽 1662年 奈良国立博物館


* * * * *

投稿 2021.03.04
更新 
参考 

狩野派と制作体制
https://funart.hatenablog.com/entry/2020/03/17/170048

探幽縮図 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215953/8

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奥村土牛

こんばんは。
今日は奥村土牛について、お話しします。


*概要*
生没年  1889-1990年
時 代  近代
居住地  東京
分 類  日本画日本美術院
特 徴  重ね塗りによる繊細な表現
代表作  鳴門
受影響  梶田半古・横山大観など
その他  1962年文化勲章受章


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(写真)醍醐 奥村土牛 1972年 山種美術館

奥村土牛は明治生まれの日本画家。
自然を愛し、草花をテーマにした透明感のある作品を多く描きました。

画号の「土牛」という名前は、出版社を営んでいた父が、土牛28歳の時に、丑年生まれの干支にちなんだ「土牛石田を耕す」から引用してつけられたそう。
「土牛石田を耕す」は、中国唐時代の有名な禅僧・寒山の詩から取られたもので、
「石の多い荒れ地を根気よく耕せば、やがては美田になるように、たゆまない精進をしなさい」という意味が込められています。
彼の繊細で丁寧な表現とも一致する、素敵な画号ですね。

病弱体質

土牛は病弱だったそうで、高等科に進むも中退。
梶田半古のもとに入門し、彼の画塾で絵の技術を学びました。
その後は為替貯金局に勤務し、ポスターや統計図・絵葉書を描いていたそうです。
健康状態がすぐれない時期があったため、一つの大作を描くというスタイルではなく、
執拗なまでのスケッチをするという彼独自のスタイルを築きました。

土牛は、文芸雑誌「白樺」にも影響を受けました。
雑誌「白樺」では、当時新しく日本に輸入されてきたゴッホセザンヌなどの後期印象派の絵画が紹介されており、土牛はこれらに大きな影響を受けたとされています。
確かに、モチーフの扱い方や構成に後期印象派の影響が見て取れるような気がします。

重ね塗りによる繊細な表現

土牛の作品の特徴は重ね塗りによる繊細な表現です。
この表現に行きついた背景には、病弱体質な一面から、丁寧なスケッチを何度も行っていたことが挙げられます。
土牛は、刷毛で何百回とも言われるほど絵具を塗り重ねることで、微妙な色加減の繊細な表現をすることに成功しました。
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(写真)鳴門 奥村土牛 
徳島県の有名な鳴門を描いた一作。
正面の鳴門と、奥にうっすらと見える山、という単純な構図を取ることで、見る人をひきつけます。
群青や胡粉、百緑を何度も丁寧に塗り重ねることで、海の奥深さと渦のしぶきを表現しており、臨場感のあるリアルな作品となっています。
渦のそばまで船で行き、身を乗り出すようにして写生を続けたと言われています。




いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください


それでは、また来週

* * * * *
投稿 2020.11.06
更新 
参考 
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下村観山

こんばんは
今日は下村観山について、お話しようと思います。

*概要*
生没年  1873-1930年
時 代  明治 - 昭和初期
居住地  和歌山→東京
分 類  日本美術院
代表作  小倉山
特 徴  穏やかな色彩と線描
技 法  朦朧体
受影響  狩野芳崖・橋本雅邦



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(写真)小倉山 下村観山 1909年 157.0×333.5cm 横浜美術館

下村観山は和歌山県能楽師の3男として生まれました。
8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻師に、兄たちは彫刻家になりましたが、観山は絵の道に進みました。
観山は知人の藤島常興に絵を習い、常興は狩野芳崖の父の門徒であったため、芳崖や、芳崖の親友橋本雅邦に師事することとなりました。
10歳の頃には芳崖から絵の才能を認められ、名前を受けていたとか。

日本美術院時代

1889年に東京美術学校入学。
一期生として、横山大観菱田春草とともに天心に師事しました。
大観や春草とは違い、早くから絵師としての才能を発揮していた観山は、狩野派の筆法などを一通り習い直すのと同時に、やまと絵の研究にも励んだそう。

闍維

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闍維(じゃい) 下村観山 1898年 143.7×256.0㎝ 横浜美術館

釈迦が 荼毘だびに付される場面を描いたもの
フェノロサはこれの作品を見て
「外国と日本との古格を離れ、無限の力と創意とをもっていまだ抵触されたるなき画題を捉えた傑作」と評したそう。
ちなみに、右から2人目が観山だとか。
大観や春草とは違い、やまと絵のような華やかさがありますね。



いかがだったでしょうか

内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください

今回は1日更新日を送らせてしまいました。すみません。
それでは、また来週

* * * * *
投稿 2020.08.08
更新 
参考 下村観山展HP https://yokohama.art.museum/special/2013/kanzan/exhibition.html

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菱田春草

こんばんは
今日は菱田春草について、お話しようと思います。

*概要*
生没年  1874-1911年
時 代  明治
居住地  東京・茨城
分 類  日本画 日本美術院
代表作  王昭君図 賢主菩薩 落葉 黒き猫
特 徴  柔らかな色彩 朦朧体
技 法  朦朧体・空気遠近法
受影響  橋本雅邦
与影響  横山大観
その他  岡倉天心に師事
     日本画界の天才

菱田春草岡倉天心の弟子で東京芸術大学の教員でした。
美術学校の師は狩野派の末裔・橋本雅邦。
岡倉天心横山大観とともにインドやアメリカ・ヨーロッパを渡り近代日本画に大きな影響を与えた人物です。

*空気を描く

「空気を描く工夫はないか」

西洋画の三次元的な空間表現を日本画に取り入れたいと考えた美術評論家岡倉天心が、春草らに課した課題でした。

それを受け、1900年頃から、弟子の春草や横山大観は、これまでの日本画では欠かせない輪郭線をなくした無線描法を試みました。
しかしこの技法は強い非難を呼び、朦朧体(もうろうたい)と揶揄され、理解されませんでした。

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(写真)落葉 菱田春草 1909年 永青文庫

網膜炎を患ったのち、自宅での静養中に近くの雑木林を題材として描いた作品です。

色づかいと構成によって、自然な奥行きを表現し、「朦朧体を超えた表現」とも言われるこの作品。
木や落ち葉を、1つ1つ丁寧に描き、遠い木は薄く、手前の木は濃く、色調に変化をつけることで雑木林の奥行きを表現しています。


横山大観菱田春草

明治の西洋化、近代化の時代
春草や大観ら、日本画に西洋の技法を取り入れて、近代化を試みた先駆者でした。
岡倉天心という共通の師を持ち、ともに世間の強いバッシングを受けながらも、強い信念を持ち作品を制作し続けました。

春草と大観の歳の差は6歳
春草の方が年下でしたが、大観は春草を師のように思い続け、尊敬して止まなかったそうです。

春草と大観は、合作をいくつか残しています。
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(写真)「帰路・入船 」入船 横山大観菱田春草 1902年 京都国立近代美術館

春草は、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家でしたが、36歳という早さでこの世を去ってしまいました。

大観は「日本画の巨匠」といわれることがあると、「春草の方がずっと上手い」と答えたといいます。
いかに大観にとって、春草が大切な存在だったかが伺えるエピソードですね。



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それでは、また来週

* * * * *
投稿 2020.07.24
更新 
参考 

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狩野芳崖 最後の狩野派

こんばんは、今日は狩野芳崖について、お話しようと思います。

*概要*
生没年 1828-1888年
時 代 江戸ー明治時代
居住地 山口
分 類 狩野派 
代表作 悲母観音
特 徴 仏画水墨画の表現
    西洋画の色彩表現や空間表現
その他 最後の狩野派 近代日本画の父



芳崖は長府藩(現在の山口県)狩野派の御用絵師の家系に生まれました。
もともと長府藩狩野派は永徳の父狩野松栄に期限がある家系のようで、桃山時代から長府に移り住んでいる家系です。
当時は京狩野江戸狩野と区別され呼ばれていますが、そのどちらにも当たらない流派です。

芳崖の名前の由来は禅の教えから。
「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という意味合いで、「芳崖」(法外)の号を使い始めたと言われています。


近代日本画の父

芳崖は、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担いました。


(写真)仁王捉鬼図(におうそうきず) 狩野芳崖 1886年 東京国立博物館
鮮やかな西洋顔料を取り入れた作品。
1882年、フェノロサとの出会いから、芳崖は西洋画のいろはを学び、日本画への導入を試みました。
この作品は展覧会で一等となり、芳崖はたちまち人気画家となったそうです。


(写真)悲母観音 狩野芳崖 1888年
「西洋画を取り入れた新しい日本画」を試行錯誤した結果生まれた芳崖最晩年の名作
観音の衣文表現には仏画水墨画の伝統技法が見られますが、色彩表現や空間表現には西洋画の表現が取り入れられています。
芳崖はこの作品を描き上げた4日後、亡くなりました。




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それでは、また明日

* * * * *
投稿 2020.06.20
更新 
参考 
仁王捉鬼図 http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=188003

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千住博

こんばんは。今日は千住博について、お話しようと思います。


*概要*
生 年 1958年〜
時 代 現代
出身地 東京
居住地 ニューヨーク
分 類 日本画
代表作 「ウォーターフォール」シリーズ
特 徴 滝をモチーフとした作品
    調和のとれた構図 モダンな作風
題 材 風景 滝



千住博日本画界で数少ない、世界的に評価を得ている画家です。
コンセプトは自然の美の感動を、世界の人々と共有すること。
有名な滝のシリーズをはじめとした、壮大で大胆な構図の作品を数多く世に出しています。

ウォーターフォール」シリーズ

一室の壁一面を覆い尽くすようなサイズで描かれる滝の作品シリーズ。
画面の上から絵具を垂らして描く斬新な技法で描かれています。
これは、千住の「滝らしい滝を描きたい」という思いから、本物の滝のように描くこの技法が生まれました。

滝に関しては、「どこの滝」でなく「滝そのもの」を描こうとしているそう。
美しさを表すために絵具の探究を続け、最終的に蛍光塗料を絵具に混ぜて描くことを決めたそう。
蛍光塗料で描かれた滝は、暗室で展示される風景を写真で見るだけでもうっとりします。

(写真) Ryujin龍神)Ⅰ・Ⅱ 千住博 2015年
ヴェネツィアビエンナーレで特別展示された大作


以下は、千住博美術手帖でのインタビューの言葉です。

私が描く滝は、どこの有名な滝というものではありません。
実際にイグアスの滝、ナイアガラの滝と、世界のいろいろな滝を見てはいます。
滝として一番迫力のある形は何だろう、一番きれいな飛沫の上がりかたは何だろうと、徹底的に見て頭に入れ込み、描くときはそこからベストの組み合わせを選んでいます。

現実をありのままに描くという人もいますが、私はそうではない。でも、私が描きたいのは、地球の滝という現実そのものなんです。





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それでは、また明日

* * * * *
投稿 2020.06.14
更新 
参考 千住博 公式サイト
http://www.hiroshisenju.com

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