奥村土牛
こんばんは。
今日は奥村土牛について、お話しします。
*概要*
生没年 1889-1990年
時 代 近代
居住地 東京
分 類 日本画・日本美術院
特 徴 重ね塗りによる繊細な表現
代表作 鳴門
受影響 梶田半古・横山大観など
その他 1962年文化勲章受章
奥村土牛は明治生まれの日本画家。
自然を愛し、草花をテーマにした透明感のある作品を多く描きました。
画号の「土牛」という名前は、出版社を営んでいた父が、土牛28歳の時に、丑年生まれの干支にちなんだ「土牛石田を耕す」から引用してつけられたそう。
「土牛石田を耕す」は、中国唐時代の有名な禅僧・寒山の詩から取られたもので、
「石の多い荒れ地を根気よく耕せば、やがては美田になるように、たゆまない精進をしなさい」という意味が込められています。
彼の繊細で丁寧な表現とも一致する、素敵な画号ですね。
病弱体質
土牛は病弱だったそうで、高等科に進むも中退。
梶田半古のもとに入門し、彼の画塾で絵の技術を学びました。
その後は為替貯金局に勤務し、ポスターや統計図・絵葉書を描いていたそうです。
健康状態がすぐれない時期があったため、一つの大作を描くというスタイルではなく、
執拗なまでのスケッチをするという彼独自のスタイルを築きました。
土牛は、文芸雑誌「白樺」にも影響を受けました。
雑誌「白樺」では、当時新しく日本に輸入されてきたゴッホやセザンヌなどの後期印象派の絵画が紹介されており、土牛はこれらに大きな影響を受けたとされています。
確かに、モチーフの扱い方や構成に後期印象派の影響が見て取れるような気がします。
重ね塗りによる繊細な表現
土牛の作品の特徴は重ね塗りによる繊細な表現です。
この表現に行きついた背景には、病弱体質な一面から、丁寧なスケッチを何度も行っていたことが挙げられます。
土牛は、刷毛で何百回とも言われるほど絵具を塗り重ねることで、微妙な色加減の繊細な表現をすることに成功しました。
(写真)鳴門 奥村土牛
徳島県の有名な鳴門を描いた一作。
正面の鳴門と、奥にうっすらと見える山、という単純な構図を取ることで、見る人をひきつけます。
群青や胡粉、百緑を何度も丁寧に塗り重ねることで、海の奥深さと渦のしぶきを表現しており、臨場感のあるリアルな作品となっています。
渦のそばまで船で行き、身を乗り出すようにして写生を続けたと言われています。
いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
* * * * *
投稿 2020.11.06
更新
参考
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日月山水図屏風
こんばんは。
今日は日月山水図屏風(じつげつさんすいずびょうぶ)について、お話しします。
日月山水図屏風は、密教で行われる、灌頂(かんじょう)という儀式に使用する仏具の一つだそうです。
灌頂とは、諸仏や曼荼羅と縁を結び、正統な継承者となるために頭に水を注ぐ儀式だそう。
鎌倉時代から幕末にかけては天皇の即位式にもこの灌頂が行われていました。
ここからは、室町時代に制作された2つの日月山水図屏風をみていきたいと思います。
東京国立博物館蔵「日月山水図屏風」
(写真)日月山水図屏風 室町時代・16世紀 148.1x312.0cm 東京国立博物館 重要文化財
大きくうねる木々や、水流を描く「動的」な右隻に対し、
左隻は水流も穏やかで木や山もどっしりと、伸び伸びとそこに描かれています。
右隻・左隻を並べてみると、連動しているようでしていない。
この作品は、もとは別々に描かれた作品であったものが屏風として組み合わされた、と考えられています。
それぞれ個々にみてみると、とても見やすくて構図もいいような気がします。
左上にある太陽が山々からひっそりと顔を出しています。
季節は冬から春にかけてでしょうか。
銀色の月がわびさびを感じさせます。
季節は夏から秋にかけてでしょうか。
生茂る木々と葉の落ちた木が描かれています。
金剛寺蔵「日月山水図屏風」
日月山水図屏風 作者不明 15〜16世紀 金剛寺 国宝
こちらは大阪府の金剛寺にある重要文化財の屏風です。
金剛寺は密教のお寺。修行僧が日々の修行の中で描いたのではないかといわれています。
特徴的なのは山や水流などのダイナミックな表現。
生き物のような躍動感を感じます。
右隻は、春から夏の景色に金箔の太陽。
左隻は、秋から冬の景色に銀箔の月。
中央の海を軸として時が流れています。
先ほどの屏風とは間反対の方向に季節が描かれているのが不思議です。
また、ここで注目したいのが白の顔料です。
この作品では、
・雪全体は「胡粉」で平らに塗って
・松の上に降り積もった雪を「鉛白」で盛り上げ
というように、白色顔料の使い分けがされています。
鉛白は、平らに美しく塗りやすい
胡粉は、盛り上げて塗りやすい
という、それぞれ特徴がありますが、
こちらの作品では逆の用途で使用されています。
金剛寺の日月山水図屏風が制作された年代は、白色顔料の材料がこれまで多く使用されていた鉛白から、胡粉という絵具に転換していく時期でした。
この作品は、もしかしたら白色顔料の使い方を試行錯誤していた作品だったのでしょうか。
※参考文献
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/224264/1
いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
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投稿 2020.
更新
参考
https://www.tobunken.go.jp/~ccr/pdf/58/5807.pdf
(報告)国宝日月四季山水図屏風の蛍光x線分析(2019年発行)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/224264/1
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狩野長信
こんばんは。
今日は狩野長信について、お話しします。
*概要*
時 代 安土桃山-江戸時代初期
年 代 1577-1654年
居住地 江戸
分 類 狩野派
代表作 花下遊楽図(かかゆうらくず)
受影響 狩野松栄・永徳
その他 江戸幕府御用絵師
狩野長信は、狩野松栄の四男。狩野派でも特に有名な狩野永徳を兄に持つ人物です。
幼い頃から父の松栄や兄の永徳から絵を習ったと言われています。
また、長信は江戸幕府に奉仕した狩野派で、最初に御用絵師となった人物とも言われています。
晩年には狩野派一門の長老として、二条城二の丸御殿や日光東照宮の制作にも加わるなど、同時第一線で活躍した人物でした。
花下遊楽図屏風
(写真)花下遊楽図屏風 1960-1624年 148.6×355.8㎝ 東京国立博物館 国宝
桃山時代の人々の暮らしやファッションを見ることができる、風俗画の傑作と呼ばれる作品です。
右隻中央は関東大震災で焼失して、現在は残っていません。
(写真)復元画像
美しい着物を着た貴婦人たちが優雅に花見を楽しんでいる、1番の見どころと言ってもいいところですね。これが焼失してしまったことは本当に残念です。
風景をみてみると、桜が咲いていることから、どうやら季節は春のようです。
いろんな人々が、各々でお花見を楽しんでいる様子が見て取れます。
左隻では、建物の前で男女がなにやら楽しそうに踊っています。
男性集団が踊っているのは、同時流行しはじめた歌舞伎踊り。
歌舞伎の語源は、「傾く(かぶく)」の連用形から。
もともとは「頭を傾ける」という意味だったそうですが、だんだんと「常識外れ」と言ったような意味で扱われるようになりました。
着物を着崩して着ているようですが、これは桃山時代の最新ファッションだったそうです。
このような男性のことも「歌舞伎者」と言っていたそうですが、語源の変化から、あまりよく思われていなかったのでしょうか…?
また、この作品はファッションに注目してみても非常に素敵な作品です。
桃山時代の服装をよく繁栄していて、しかもそれがとりわけ美しい、ということで染色の展覧会でも出品されたことがあるとか。
服装の鮮やかさの反面、建物や木々は水墨を中心にして淡く描いているため、その対比も楽しめます。
いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
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投稿 2020.10.23
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ハンコ文化について
こんばんは。
最近、「脱ハンコ」という言葉をよく耳にするようになりました。
脱ハンコについては、これまでも言われてきていましたが、
新型コロナウイルスの感染拡大に伴って
押印の文化がよりネガティブに報道されるようになったと思います。
特に最近では、経団連会長を務める中西宏明が
「ハンコはまったくナンセンスで、美術品として残せばいい」
と述べたことが話題となりました。
今回は日本独自に発達してきた「ハンコ文化」について、改めて調べてみました。
*基本情報*
意 味 個人や団体のしるし
発 祥 紀元前7000-6000年頃
中東 古代メソポタミア文明
日本の発祥 弥生時代頃 中国から伝播
日本の発展 江戸時代
ハンコは、正式には「印章」というらしく、個人や団体のしるしとして使われてきました。
印章の語源は中国秦・漢時代。
秦の始皇帝が、皇帝が持つものを「璽(じ)」臣下の持つものは「印」と呼ぶようになり、
さらに漢時代に将軍が持つものを「章」と呼ぶようになったことから、総称として「印章」という単語が生まれました。
印章文化として世界最古のものは
紀元前7000~6000年頃、中東の古代メソポタミア文明でした。
最初は「封泥」という、文書などをひもで封じた上に泥を塗り、捺印するものから始まりました。
(写真)封泥 東京国立博物館 https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TJ3061
泥から朱肉へと変わったのは、中国秦・漢の時代。紙の普及に伴って変わった背景があるようです。
印章の発展・衰退は、世界的には識字率と関係していることが多いようで、
・サインを自筆することが難しいから印章を使う
・自筆できるようになるからハンコ文化が廃れていく
といったところから印章の発展・衰退をある程度見ることができそうです。
中国では「書道」文化で発展
現在印章として最も古いものは戦国時代初期(紀元前5世紀ごろ)、シルクロードを通ってインドから伝わってきたとされています。
秦・漢の時代では、印章は権力を示す象徴となりましたが、
隋・唐の時代になると、書道の発展とともに署名が用いられるようになりました。
中国の印章は、身近な日用品としてはほとんど定着せず、
印章は「芸術」として、印章自体を芸術作品とする「篆刻」となり、独自の発展をすることとなりました。
日本では、「武家社会」で発展
日本で印章が使われるようになったのは701年
大宝律令の制定で公文書に押す「官印」が導入されたことから始まったとされています。
その後、一旦は印章を押す文化が廃れ、平安時代後期から鎌倉時代にかけては花押(かおう)という、簡略化した自書に代わりました。
(写真)花押 豊臣秀吉
室町時代になると、宋から来た禅宗の僧侶たちを通して、書画に用いる用途で再び印章を使う習慣が復活することとなり、武家社会へと発展していきました。
花押は手間がかかるものだったそうで、その手間を簡略化するために「略式の署名」として印章が使われるようになりました。
(写真)「天下布武」朱印 織田信長
江戸時代になると、押印の文化が民間にも浸透していき、私文書にも印を押す慣習が広がっていきました。
この頃に実印登録の制度が作られはじめたと言われています。
江戸時代の日本における印章は命の次に大事なものに例えられるなど、庶民の財産を保証するものとして非常に重く扱われるようになり、日本独自の印章文化が確立しました。
明治には、欧米のように署名制度を導入しようと試みましたが、反対意見が相次いだため、結局押印の文化は廃れず、残っていきました。
いかがだったでしょうか
日本だけは「自書→ハンコ」という世界と逆の流れをしていたところが興味深いですね。
これからの時代、日本のはんこ文化は、どう変わっていくのでしょうか。
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
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投稿 2020.10.16
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大津絵
皆さんは、現在、東京ステーションギャラリーで「もうひとつの江戸絵画 大津絵」という企画展が開催されているのをご存知でしょうか?
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202008_otsue.html
この展覧会は、これまで「美術品」として扱われることのほとんどなかった大津絵を、「もうひとつの江戸絵画」としてとらえ、大津絵を愛した画家や文人とともに紹介しています。
では、その「大津絵」とはどのようなものなのでしょうか
今回はお話ししていきたいと思います。
*概要*
意 味 滋賀県大津市の民族絵画・東海道大津宿の名物
時 代 江戸時代初期
地 域 滋賀県大津市
発 祥 1624~1644年頃 髭茶屋追分
特 徴 稚拙さ・
題 材 親仏・人物・動物・風刺画
その他 土産物・護符としての役割・大量生産・名も無き画家
発祥について
大津絵が生まれたのは、江戸時代の寛永年間(1624- 1644年)のころ
当初は仏教の信仰の一環として、仏画を中心に描かれていました。
現在分かっている、「大津絵」という言葉が最初に登場した最古の例は、
松尾芭蕉が1691年に詠んだ俳句です。
大津絵の 筆のはじめは 何佛
この俳句には、仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れています。
当初から、安く手に入る信仰の対象として人気があり、江戸時代後半(8世紀ごろ)には教訓や風刺も含んだ作品が出てくるようになりました。
堅苦しくない、自由な空気感があるところが特徴で、この部分が「美術品」として扱われなかった理由や、画家たちに愛された理由となったのかもしれません。
画題は非常に多様だったとされますが、江戸時代後半から画題が時代に簡略されていき、現在では百余種と言われています。
美術的価値のない作品として扱われてきた
大津絵は、これまで歴史・民族資料として扱われることが多く、美術品として扱われることがあまりなかったそう。
その理由には、大量生産された安い土産物だったということや、「護符」として使用されていたことも関係しているとか。
江戸時代の絵画として知られる狩野派や琳派、奇想の絵師や浮世絵とも違う、独特の面白さがあります。
護符としての役割「大津絵十種」
大津絵十種とは、1804~1829年(文化・文政期)に確定した、大津絵の代表的な画題のことです。
この頃から大津絵は護符として売られるようになり、そのためそれぞれの画題には特有の効用があり、それに応じた絵が画題として描かれていました。
ここからはその十種の画題とその効用について、有名なものを中心にお話しします。
①藤娘
「愛嬌が加わり良縁を得られる」という効用がある作品
藤娘とは、藤をかついだ娘という意味
歌舞伎や日本舞踊に演目として取り入れられたことで有名となった画題です。
歌舞伎の「藤娘」では、ストーリーは特になく、藤の花の精が娘の形で現れ、女心を踊る作品なのだそう。
②瓢箪鯰(ひょうたんなまず)
この画題は、禅問答を表す内容の画題です。
「ひょうたんでなまずが抑えられるか?」という内容で、「捉えようのないこと」の例えとして使われています。
地震を起こす大鯰を日本猿が瓢箪を用いて押さえ込もうとしている
大津絵としては「物事を円滑に解決する」という効用があります。
③鬼の寒念仏
現在最も人気の大津絵
僧侶の身なりをした鬼の絵で、偽善者にたとえて風刺した画題です。
小児の夜泣きを止め悪魔を払う効用があります。
この鬼は、二本のツノが生えた一般的な鬼ですが、これは陰陽道の影響から来ているそうです。
④雷公(雷の太鼓つり)
名前の通り雷除けの効用がある画題
⑤長頭翁(外法の梯子剃り)
長寿の効用がある画題
⑥鷹匠
利益が出て無くし物が手に入るという効用がある画題
⑦座頭
意外なものごとに足元を救われるという風刺を描いたもの。
「座頭」というのは江戸で視覚障害者の階級だったようです。
転ばないというような効用があったとか。
⑧槍持ち奴
道中安全の効用がある画題
⑨矢の根
目的が達成でき、願い事が叶う効用がある画題
⑩釣鐘弁慶
身体剛健にして大金を持つ
いかがだったでしょうか。
有名な3作品だけ、詳しくご紹介しましたが、
④以降の詳しい内容については、「大津絵の店」というサイトがわかりやすかったので、
ぜひそちらをご覧ください。
http://www.otsue.jp/index.html
多くの画家に愛されている
最初にお話ししたとおり、大津絵はこれまで多くの芸術家や文学家などの人々に愛されてきた絵でした。
古くは江戸時代後期、
伊藤若冲が「藤娘」「座頭」などの大津絵作品を描いていたり、
円山応挙は「大津絵美人図」という作品を残しています。
(写真)藤娘 伊藤若冲
円山応挙の大津絵美人図については、
資料がありましたのでリンクを貼っておきます。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/file/tayori/tayori_071_2008.pdf
大津市歴史博物館大津歴博だより(2008年発行)
5ページ目左下です。
大津絵のファンは他にも
・小絲 源太郎
・柳 宗悦
・ピカソ
・シーボルト など
超有名人たちですよね。
余談ですが、現代アート作家?の若狭慎一さんという方のアートも似た雰囲気を感じます。
いかがだったでしょうか
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
* * * * *
投稿 2020.10.09
更新
参考
東京ステーションギャラリー
「もうひとつの江戸絵画 大津絵」
9月19日(土)-11月8日(日)月曜日休館
10:00 - 18:00
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202008_otsue.html
大津絵の店
http://www.otsue.jp/index.html
大津絵の筆の初めは何仏 解説
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/ohtu.htm
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日本の着物文化
こんばんは
今日は日本の着物文化について、お話しようと思います。
*概要*
意味 日本の伝統衣服
発祥 弥生時代
発展 平安時代
現在「着物」と聞くと、布を体の前で重ねて帯で締める服を想像しますが、
着物という言葉は、もともとはその名の通り「着る物(衣服)」という意味でした。
それが、だんだんと「着物=日本の伝統服」という認識が強くなり、
現在では浴衣のような形の服を「着物」として認識するようになっていきました。
弥生時代
着物の文化は弥生時代から始まったと言われています。
最初は、袖口が小さい小袖と呼ばれる着物から、庶民を中心に発展していきました。
ただ、これが現在でいう着物の原型かと言われると、少し不思議なように思います。
それ以前の、縄文時代では動物の皮や繊維でできたものを体に巻く服布を織り身に付けるという意味では、原型として正しいと言えるかもしれません。
この時代では、男女はそれぞれ
男性は 巻布衣(かんぷい)
・・・ 1枚の布を体に巻き付けたもの
女性は 貫頭衣(かんとうい)
・・・布の中央にある穴に頭を通して着るもの
という服を身に付けていました。
古墳時代
古墳時代からは神話色が強く感じられる、よく見る古事記や日本書紀に出てきそうな服装となっていきました。
この時代では、上下の分かれた、男性はズボンのようなもの、女性はスカートのような服へと変化しました。
飛鳥・奈良時代
飛鳥・奈良時代には、明確な身分制度ができたため、服装の違いが表れるようになりました。
労働階級の庶民は小袖を使用していましたが、
上流階級の人々は、袖が長い大袖という服装を着用しており、小袖は下着として使用されるようになりました。
服装について、細かな指定ができた時代でもあり、「襟は右が前」という、現在の常識も、この時期に法律で定められたものだそう。
奈良時代あたりから現在イメージする着物の形に近くなってきました。
(写真)聖徳太子二王子像(模本) 狩野養信模写 1842 年 江戸時代
平安時代
着物の文化は平安時代に大きく進展したと言われています。
それまで、上流階級の人々にとって、小袖は下着として使用されていましたが、平安時代中期ごろから表
着として使われるようになっていきました。
この時代から、女性の服は前開きの服(十二単・じゅうにひとえ)、男性は貫頭衣に襟がついて発展した
ような服(東帯・そくたい)を着るようになりました。
ちなみに、庶民は浴衣のような服装だったよう。
(写真)源氏物語絵巻
室町時代
「着物」という言葉が誕生したのがこの時代と言われています。
小袖と着物は違う服を意味していたそうですが、だんだんとその定義があいまいとなり、小袖=着物と
いう認識となっていきました。
室町時代からはだんだんと武士の時代となっていったため、実用的な服装に少し変化し、手足が出せる
袖や裾の長さまで少し短くなりました。
(写真)源義経像 作者不明 15~18世紀ごろ 中尊寺
江戸時代
江戸時代には、身分によって素材や色に厳しい制限があり、庶民は色や素材があまり選ぶことができませんでした。
庶民が選べる色は茶・鼠・藍色だけだったとか。
そのため、帯や柄でおしゃれを楽しむ文化が発展していきました。
柄や帯にも多様な特色が見られるようになったことから、日本の着物文化の完成された時期とも見ることができます。
(写真)大谷鬼次の奴江戸兵衛 東洲斎写楽
いかがだったでしょうか。
今まで私は何となく知っていた、という程度で満足していましたが、時代ごとに変化を少し細かく見ていくと、改めて発見がありました。
内容の認識違い等ありましたら、ぜひコメント等で教えてください
それでは、また来週
* * * * *
投稿 2020.10.02
更新
参考
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000001
このサイトでは、各時代毎の、身分や職による着物の変化を見ることができます。
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絵画と対比調和
こんばんは。
突然ですが、みなさんは「対比調和」という言葉をご存知でしょうか?
対比調和とは、補色色相(色相環で真逆にあたる色相同士の色)による調和のことです。
例えば、色相環において、赤とほぼ真逆にあたる色は青緑で、黄色の真逆は青紫です。
この対比調和を意図的に使うことで、コントラストが強くなり,より鮮やかに見えたり、ある部分を強調させたり、目線を持っていかせることができます。
今回はその「対比調和」の観点から、日本と世界の絵画を見直し、それぞれの特徴について考えていきたいと思います。
赤&緑
赤と緑の日本絵画は、有名なものでも平安時代の源氏物語絵巻以降、非常に多数見られます。
かえって西洋絵画では、有名なものではヤンファンエイクのアルノルフィーニ夫妻の肖像や、マティスの赤の食卓くらいです。
クリスマスカラーとして有名な配色ですが、西洋絵画ではあまりメジャーな組み合わせではないのかもしれません。
(写真)源氏物語絵巻 柏木二 1100年頃 徳川美術館 国宝
(写真)見返り美人図 菱川師宣 1650-1700年 東京国立博物館
(写真)裸体美人 萬鉄五郎 1912年
(写真)アルノルフィーニ夫妻の肖像 ヤン・ファン・エイク 1434年 81.8×59.7cm ロンドン・ナショナルギャラリー
(写真)赤の食卓(赤のハーモニー) アンリ・マティス 1908年
赤&青
赤と青の組み合わせは、アメリカやフランスの国旗にも使われている組み合わせで、西洋絵画でもよく見られます。
特に、宗教画では、マリア様は基本的に赤い服に青いローブをまとっています。
反対に、日本絵画では伊藤若冲の動植綵絵くらいにしか使用されている例を見つけられませんでした。
(写真)大公の聖母 ラファエロ・サンツィオ 1505-1506年頃 84.4×55.9 cm パラティーナ美術館
(写真)印象-日の出 クロード・モネ 1873年 48×63cm マルモッタン美術館
(写真)動植綵絵 紫陽花双鶏図
黄&青
黄色と青の組み合わせは、「この世で最も美しい色の組み合わせ」とも言われている配色です。
良くこの組み合わせを使うと有名なのは、フェルメールです。
また、個人的にはゴッホもよく使っているような気がします。
日本絵画では、赤青の組み合わせと同じくあまり見ません。
黄青の組み合わせが有名な絵画でも見られるようになったのが、歌川広重や鈴木其一の時代であるということから考えると、もしかしたら青色の絵具があまり手に入らないものが多かったという関係から、必然的にそうなったのかもしれません。
(写真)牛乳を注ぐ女 フェルメール 1658~1659年頃 45.5×41cm アムステルダム国立美術館
よく見ると青の着物の下に赤いスカートまで履いています。色相的に言うととても強い組み合わせですね。
(写真)夜のカフェテラス ゴッホ 1888年
(写真)東海道五十三次 庄野 歌川広重 1833-1834年 名古屋市立博物館
(写真)朝顔図屏風 鈴木基一1840-1845年頃 メトロポリタン美術館
こちらは,絵具としては青・緑を使用していますが、金箔を「黄色」ととらえると,黄・青の関係のようにも見えるので、とりあえずこの分類に。
おまけ
(写真)両界曼荼羅図 900年頃 東寺 国宝
赤・緑・青を主に使用している絵画の例。
青と緑は色相環で隣り合っている、近似色相のため,青・緑と補色関係にある赤がより強く見えます。
構成の工夫もあり、中央にある大日如来の悟りの世界が神々しく感じられます。
いかがだったでしょうか
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* * * * *
投稿 2020.09.25
更新
参考
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